2007年05月30日
満州国
満州国についての経緯は、1906年に日本は国策会社である南満州鉄道を設立し、これ以降日本は中国大陸の北部(満州)における権益を急速に固めることになる。その後、1931年に勃発した満州事変などのそれまでの軍事行動の結果として、中国大陸北部を中心とする土地をさらに占領し、1932年には元首として清朝の愛新覚羅溥儀を執政[14]とした満州国を建国していた。
上記のような日本の行動に抗議する中華民国は国際連盟に提訴し、国際連盟はイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。当時、蒋介石率いる中華民国は度重なる内戦により治安が悪く、緩衝材としての満州国の必要性があることからリットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。
その後1933年2月に行われた国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)の賛成多数で可決された。可決の直後、松岡洋右日本全権は「このような勧告は受けいることができず、もはや日本政府は国際連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。その後日本は国際連盟を離脱し、1936年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなどイギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明にしてゆく。
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